2015 December 04真4Fと神話世界への旅
塩田信之の真4Fと神話世界への旅
第7回 オーディンとゲルマンの神々
消されたゲルマンの神々
共和国時代のローマは異国の神々に寛容で、ギリシアやエジプト、インドの神々を崇める神殿がいくつもあったようです。前回取り上げたミロクのルーツであるミトラも、ミトラスとしてローマで多くの信者を集めていました。ゲルマンの神であるオーディンも、ローマのメルクリウスと結び付けられたことで受け入れられたようで、水曜日を「メルクリウスの日」とするローマの伝統を受け継いだ英語文化圏において、水曜日は「オーディンの日」を意味する「Wedenesday」と呼ばれるようになったことがそれを物語っています。
さて、そんなローマも帝政に変わって紀元を迎えると、属州であるユダヤ人地区にイエス・キリストが誕生します。いろいろあってイエスは磔刑にされるわけですが、この時もローマにユダヤ教あるいはキリスト教を弾圧する意思は特になかったようです。『新約聖書』の立場から描かれているのは、ユダヤ民族のみを救済するはずの唯一神を、誰もを救う唯一神へと変える急進的な宗教改革を行おうとしたイエスをユダヤの最高機関が疎ましく思い、宗教裁判を行った上で「ローマにとっても危険人物」としてローマ総督に差し出して処刑させたということになります。ローマの属州ながらユダヤ人の王ヘロデの下、ユダヤ教も盛んに行っていたユダヤ人たちでしたが、処刑を行う権利は持っていなかったのです。
その後原始キリスト教が活動を活発化させていくと、残忍な皇帝として知られるネロをはじめとするローマ皇帝によって弾圧される立場となりますが、それはローマ皇帝が自身を神と自称して多神教の神々に並び立つ存在だったのを、キリスト教が唯一神以外の神を認めなかったからといわれています。
そんな状況が変化したのは、4世紀の皇帝コンスタンティヌス1世の時代です。当時のローマ帝国は4つに分裂していて、コンスタンティヌスはガリアやゲルマニアあたりの支配者でした。コンスタンティヌスはネロの時代から約250年の間禁じられてきたキリスト教を、他すべての宗教とともに公認(ミラノ勅令)し、みずからもキリスト教徒となって多くのキリスト教徒たちを味方につけ、分割ローマ帝国の他の皇帝――中にはいわゆる「ゲルマン人」に含まれるゴート族の協力を得ていた人物もいましたが――を倒してローマ帝国を再統一します。多神教国の首都として宗教的に混沌としていたローマから首都を現在のイスタンブールにあたるコンスタンティノポリスに移し、東ローマ帝国の基礎を作りました。そして4世紀末、テオドシウス1世の時代にキリスト教はローマの国教となり、その後東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」と通称されるキリスト教国となります。
以降、キリスト教は西ローマを中心とするカトリック教会と東ローマから発展した東方正教会に分裂するなどさまざまな変容を見せていきます。キリスト教の布教はローマを超えてヨーロッパ全域へと広がっていきますが、ガリアやゲルマンも含めて多神教文化が古くから根強い土地の場合はすべてを邪教として排斥するのではなく、女神信仰を聖母マリアに向かわせるなどいろいろな工夫も行っていました。そんな甲斐もあってと言うべきか、ヨーロッパのほとんどの地域はキリスト教化されていき、古い多神教はその痕跡すら残らない状態へとなっていくのです。
ノルウェーやスウェーデン、アイスランドといった地域はキリスト教化が比較的遅く、宗教的な記録も消失を免れたというのが北欧神話が生き残った理由です。一方でケルト神話が生き残った理由も、ブリテン島がローマの完全な支配下にはならなかったからだと言われていますし、神話好きな人間としてはキリスト教の布教がある意味不完全でよかったと心から思います。
もっとも、最初に書いた通り「北欧神話」として残っている物語が「ゲルマン神話」のすべてではありません。ゲルマニアから伝わった物語も口伝で変化していったでしょうし、伝わった土地で独自の変化も遂げています。北欧神話の文献には王や豪族などの家系についての記録といった体裁のものも多く、祖先を神と同一視したり伝統的な信仰方針が反映されるなど、さまざまな変化要因があった上で残った形なのです。