2015 November 27真4Fと神話世界への旅
塩田信之の真4Fと神話世界への旅
第6回 ミロクと仏教の救済思想
こんにちは、塩田信之です。毎週、『真・女神転生IV FINAL』に関係するふたつのキーワードをとりあげ、そのルーツや現代に及ぼしている要素などを深く掘り下げていくことで、『真・女神転生IV FINAL』の面白さを解読していきます。開発スタッフの談話や制作メモなどから、シナリオや設定にまつわるさまざまなこぼれ話も紹介する予定です。
第6回 ミロクと仏教の救済思想
死んで「救われる」仏教の死生観
仏教を象徴する考え方のひとつに、「輪廻」があります。死ぬと、生前の行いによって新たな生に「転生」するという考え方で、仏教徒でなくとも普通に使われる言葉です。日本では多くの人にこの考え方が浸透していて、葬儀も仏教式あるいは無宗教であるとしても慣例的に仏教形式に近い形で行われます。
一方で統計的には日本人には仏教よりも信者数が多いとされる神道では、人は死ぬと祖先の霊と一緒になって家や一族の守護神となると考えられていて、生まれ変わったりはしません。葬儀が神式で行われることはないわけでもないのですが、その手順や作法は仏式と比べて一般的に知られているとは言えません。
日本に神道と神社が古くから根付いていたことは間違いありませんが、仏教伝来以降「神仏習合」の考え方に象徴されるように仏教と神道は日本で共存し非常に近い関係にあって、一般的には仏教式の考え方で両者をひっくるめて捉えていました。明治時代になって「神仏分離令」が布告されて両者を分けて考えるようになるのですが、江戸時代に深く定着した檀家制度や仏式の葬儀を変えるまでには至りませんでした。現在では例えばキリスト教式の葬儀を行うこともできますが、本来なかった「通夜」を行ったり、仏式に近い「日本式」になっていたりします。
生前の行いによって次にどんな生き物に転生するかが決まるというのは、仏教が生まれたインドに古くからあった考え方です。生前の行いを「業(カルマ)」と呼んで、転生した人間の階級(カーストあるいはヴァルナ)が決まるとされていました。仏教誕生以前のバラモン教の時代からそうした考え方はあったようですが、仏教や仏教と同じ頃にインドで生まれたジャイナ教などの影響を受けて思想が確立されていったようです。
仏教の場合、転生先は人間とは限りません。善行を積んでいればまた人間になれる、という言い方をしたりします。ならば、人間に生まれ変わることは良いことなのか、というとそうでもなかったりするところが「輪廻」という考え方のキモになります。
仏教もまたバラモン教の影響を強く受けて生まれているので、このあたりは共通しているのですが、「輪廻」のループから逃れてより高次の存在、「菩薩」や「仏」に近づいていくことが宗教的な目標になります。人間として生まれた以上前世の罪を背負っている上、人間として生きることで「殺生」などさまざまな罪を負うことになってしまいます。普通は次も人間あるいは別の生き物に生まれ変わる運命を、修行なり善行を積むなりして輪廻から「解脱」しようというのが仏教やヒンドゥー教の基本理念と捉えることができます。
仏教が生まれる前のバラモン教では、「解脱」には厳しい修行が必要で、そもそも奴隷(シュードラ)には解脱する機会さえなかったため、誰もが解脱できると訴えたのが仏陀ことゴータマ・シッダールタです。ここだけ見比べるならば、仏陀は同根の教えをベースにより広い民衆を救いの対象とする宗教改革を行ったと言えます。
ゴータマ・シッダールタはさまざまな苦行を行った後、深く瞑想することによって悟りを得て仏陀になりました。これが「仏になる(成仏)」ということで、大雑把にいえば「解脱」でもあるわけです。この仏陀の教えを元に初期の仏教が誕生するのですが、この時点では解脱には修行なり瞑想なりの手段が必要でした。
解脱へと至る道は、仏教がさまざまに分派しそれぞれがより多くの信者を獲得していこうとする動きの中で変わっていきます。一般民衆にしてみれば、厳しい修行などできればしたくないというのが本音です。拡大路線を目的とした仏教各派はさまざまな仏典から、民衆に訴えやすい「楽に解脱できる」解釈が可能なものを探し出し、やがていわゆる「大乗仏教」と呼ばれる考え方を作っていきます。
ここまでの流れから「大乗仏教」の考え方を見ていくと、解脱するためには例えば「お経を唱えるだけでいい」といった単純化が行われ、さまざまな菩薩や如来が「救済してくれる」という考え方に変わっています。こうした考え方が人気を得て、仏教が世界宗教と呼ばれるまでに広く拡散していくことになるわけで、日本で仏教が根付くことになるのも、この頃からです。