2015 December 25真4Fと神話世界への旅
塩田信之の真4Fと神話世界への旅
第10回 チロンヌプとアイヌ神話
こんにちは、塩田信之です。毎週、『真・女神転生IV FINAL』に関係するふたつのキーワードをとりあげ、そのルーツや現代に及ぼしている要素などを深く掘り下げていくことで、『真・女神転生IV FINAL』の面白さを解読していきます。開発スタッフの談話や制作メモなどから、シナリオや設定にまつわるさまざまなこぼれ話も紹介する予定です。
第10回 チロンヌプとアイヌ神話
大和朝廷の征伐対象だった蝦夷
最近は耳にする機会も少なくなりましたが、北海道のことを「蝦夷地(えぞち)」などと呼ぶことがありました。「蝦夷」と呼ばれる民の住む土地という意味ですが、差別的な意味が含まれていることもあって使用が控えられるようになったようです。「蝦夷」は「えみし」や「えびす」とも読むとても古い言葉で、基本的には日本の統治機構に従わない「まつろわぬ者」を指す言葉のひとつです。
「天孫降臨」したアマテラスの子孫で最初に「天皇」と呼ばれることになるカムヤマトイワレビコこと神武天皇は、「神武東征」と呼ばれる遠征を行ったことで知られています。それを伝える『日本書紀』の中に、「エミシ」という言葉が初めて使われているのですが、そこでは「愛瀰詩」という漢字が当てられていました。
九州、宮崎県の日向をスタート地点として東に向かい、ヤマトの地に都を立て即位するまでの記録とされているため「東征」ではなく「東遷」とすることも多いのですが、『古事記』や『日本書紀』を見る限り軍を率いた戦争というほどの戦いはなかったようです。ナガスネヒコやヤソタケルといった抵抗勢力は現れるのですが、本格的な戦いになる前に収束してしまったり、だまし討ちをされかけて返り討ちにするといった小規模な戦いだったようです。
愛瀰詩の記録はさらにさっぱりしたもので、ツワモノと噂に聞いていたが戦うまでもなく帰順したとあります。このエミシはヤマト周辺に住んでいた人々ということになりますし、恐らくは後に「蝦夷」とされる人々とは異なるようで、「エミシ」という言葉自体は特定の人種を指すわけではなく「東征」の対象となる「東の蛮族」といった意味で使われていたようです。この「蛮族」という意味合いが、後の「差別的表現」に繋がってくるわけです。
大和朝廷が成立した後は、大和の地よりも東に住み、朝廷にまだ従っていない人々のことを「エミシ」と呼ぶようになります。西には「熊襲(くまそ)」と呼ばれる南九州の勢力がいて、こちらも朝廷に反抗していました。朝廷が東西の勢力と度々争っていたことは、ヤマトタケルの伝説から窺うことができます。
ヤマトタケルはまず、九州のクマソタケルを女装して近づき討ち取りました。そこまで幼名の「オウス」と名乗っていましたが、クマソタケルからタケルの名をもらって「ヤマトタケル」に改名することになります。『古事記』ではその帰路に、出雲でイズモタケルを討ち取りますが、『日本書紀』では出雲に立ち寄ったこと自体なかったことになっています。このあたりは『古事記』と『日本書紀』の違いとして目立つ箇所のひとつですが、『古事記』では出雲も「まつろわぬ者」として征伐している点は興味深いところです。
その後、ヤマトタケルも東征を行います。静岡の焼津で火責めに遭って天叢雲剣で草を薙ぎ払ったことから草薙剣と呼ばれるようになったことや、千葉に渡る際に水難に遭って妻であるオトタチバナヒメを失うなどしながら、北は宮城県まで足を伸ばし、長野や愛知の神を討伐し、岐阜県の伊吹山の戦いの際に負傷し「能褒野(のぼの)」と呼ばれる土地で命を落とし白鳥に姿を変じたとされています。なおここでは『日本書紀』の記述をベースにしていますが、『古事記』では辿ったルートも異なり、ヤマトタケルの伝承自体日本の各地に残されていますし、命を落とした場所や墓とされる場所も正確にはわかりません。
ヤマトタケル東征の範囲はとても広く、どこがエミシなのかはっきりとはしません。『日本書紀』には、ヤマトタケルの父とされる景行天皇に仕えた「武内宿禰(たけしのうちのすくね)」が東方に派遣され帰国した際に「蝦夷討つべし」と進言したことが記録されています。「東夷の日高見国」を挙げ、そこに住む大和とは異なる習慣を持つ人々のことを「蝦夷」と呼んでいます。「夷」は「えびす」とも読みますが、当時は「ひな」と読むことが多く、「辺鄙」の「鄙」と同じ読みに当てられる「卑しい」という意味を含んだ「田舎」を指す言葉です。『万葉集』では「あまざかる」という枕詞をかけ、都から遠く離れた土地を「ひな」と表現しています。「日高見国」がどこなのかは解釈が分かれますが、現在の茨城にあたる常陸国を指すとすることが多く、水戸市にある吉田神社はヤマトタケルが東征の際に休んだ地に創建されたと伝えられます。「蝦夷」という言葉自体は特定の土地や部族を指すわけではなく、「大和から遠く離れた東の地の田舎者」のことをおおむね「蝦夷」と呼んでいたのでしょう。