2015 December 25真4Fと神話世界への旅
塩田信之の真4Fと神話世界への旅
第10回 チロンヌプとアイヌ神話
日本と中国の関係から見える「蝦夷」
東西(南北)に中央集権国家に敵対する異民族がいるという考え方は、当時の大和朝廷がさまざまな点で手本としていた中国に倣ったものと考えられます。古代中国では、東には「東夷(とうい)」、西には「西戎(せいじゅう)」、南には「南蛮(なんばん)」、北には「北狄(ほくてき)」がいるという「四夷(しい)」あるいは「夷狄(いてき)」という考え方が非常に古くからあって、トウテツ文の青銅器が数多く発見された「殷(商)」よりもさらに古い「夏」時代からこの言葉が使われていたようです。大和朝廷がこれを踏襲したことは「蝦夷」に「夷」の文字が使われていることからも窺えます。
中国はその後、「周」と春秋戦国時代を経て「秦の始皇帝」が中国を統一し、そのまた次に「漢」となってやがて三国時代となるのですが、統一と分裂を繰り返しながら「中国」そのものの地図上における範囲は拡大していきます。それに合わせて、東夷や西戎と呼ばれる対象が変わっていくのですが、そんなところも大和朝廷は真似をしたといえそうです。
さてここまでの話で、トウテツもそのひとつに数えられる「四凶」を思い出した方もいるのではないかと思います。確かに、四つの方位にいるとされた怪物は、古代中国にとって脅威だった「蛮族」たちを怪物に例えたものと考えられます。これは中国の歴史家も同意見なようで、「漢」代に編纂された『史記』という歴史書には、「四凶」と同一視される「四罪」と呼ばれる怪物たちが「東夷」などになったと書かれています。
ところで、当時の日本が中国にどう思われていたのかというと、「東夷」のうちのひとつということになります。現在の朝鮮半島にあった高句麗や百済といった国と並ぶ立ち位置ですが、実際には海を挟んでいる分さらに田舎の「夷(ひな)」だったのでしょう。
中国の歴史書には、恭順した東夷の一国として日本(ヤマト)のことが記載されています。『邪馬台国』の記録として日本でもよく知られている『魏志倭人伝』という書物は、いわゆる『三国志演義』の元になった3世紀の歴史書『三国志』のうちの「魏書」に含まれる、「東夷伝倭人条」と呼ばれる部分になります。
『魏志倭人伝』以外の歴史書にも「東夷伝」にあたる部分がたいていあって、日本のことは長い間そこに書かれていました。三国時代の後、「晋」、南北朝時代を経て「隋」「唐」とおよそ300年の間に中国の王朝いくつも移り変わっていきます。南北朝時代の「宋」の歴史書『宋書』には、ヤマトの「武王」からの報告として、「東の毛人、西の衆夷と、北(朝鮮半島南部)を征服した」という記録があって、武王は「安東将軍倭国王」という称号を与えられています。この記録の「毛人」がエミシを指しているのは間違いないようです
大和朝廷は以降もずっと蝦夷征伐を続けていきます。平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や鎌倉時代の源頼朝は「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という官職に任命されたことで知られていますが、これも「夷」を征伐する任であることはその名称からもわかると思います。特に坂上田村麻呂は、岩手県欧州市を拠点としていた蝦夷の英雄「アテルイ」と戦って勝利したことでも知られています。